『ピーターラビット』シリーズに見る著作権保護期間と各国パブリックドメイン状況の複合性
はじめに
ビアトリクス・ポターによって生み出された『ピーターラビットのおはなし』(原題: The Tale of Peter Rabbit)は、1902年の初版以来、世界中で愛され続けている著名な児童文学作品です。この作品は、その文化的価値とともに、著作権保護期間に関する各国の法制度や国際的な枠組みが複雑に絡み合い、パブリックドメイン(公共財産)化の状況が国によって異なる具体的な事例を提供します。
本稿では、この『ピーターラビットのおはなし』を具体例として取り上げ、著作者の没年を基軸とする著作権保護期間の一般的な原則から、各国の特有の法改正、および国際条約がどのようにそのパブリックドメイン状況に影響を与えるかを詳述します。
著作者ビアトリクス・ポターと作品の概略
『ピーターラビットのおはなし』の著作者は、英国の絵本作家ヘルン・ビアトリクス・ポター(Helen Beatrix Potter, 1866-1943)です。彼女は1943年12月22日に死去しました。著作権(財産権)の保護期間は、一般的に著作者の死後一定期間と定められており、ポターの没年が作品のパブリックドメイン化を判断する上で重要な基準となります。
著作権保護期間の基本的理解
著作権は、著作物の著作者に与えられる排他的権利であり、大きく分けて「著作者人格権」と「著作権(財産権)」の二つに分類されます。著作者人格権は著作者の人格的な利益を保護するものであり、一般的に著作者の死後もその精神が尊重されるべきであるとされます。一方、著作権(財産権)は著作物の利用に関する財産的な利益を保護するものであり、その保護期間は各国によって異なります。
国際的な著作権保護の枠組みとして重要なのは、ベルヌ条約(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)です。この条約は、加盟国間で著作物の保護に関して内国民待遇(自国民と同じ保護を与えること)を原則とし、著作権の最低保護期間を著作者の死後50年と定めています。多くの国はこの最低期間を採用するか、それ以上の期間を定めています。
各国における『ピーターラビット』のパブリックドメイン状況
1. 英国(著作者の母国)における状況
英国では、著作権の保護期間は著作者の死後70年と定められています。これは、欧州連合(EU)の著作権保護期間に関する指令(1993年)に基づいて、加盟各国が期間を死後70年に統一したことに起因します。
ビアトリクス・ポターは1943年12月22日に死去しているため、英国における著作権は、没年である1943年の翌年である1944年1月1日から起算して70年後の2013年12月31日をもって満了しました。したがって、『ピーターラビットのおはなし』の著作権は、英国において2014年1月1日よりパブリックドメインとなりました。
2. 日本における状況
日本における著作権の保護期間も、2018年の著作権法改正により、原則として著作者の死後70年となりました。これは、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)の発効に伴う改正です。改正前は著作者の死後50年が原則でした。
ポターが1943年に死去していることから、日本においても、英国と同様に2013年12月31日で著作権が満了し、2014年1月1日よりパブリックドメインとなりました。なお、日本の著作権法には「戦時加算」という、第二次世界大戦中に連合国国民の著作物に対して保護期間が延長される特別な規定がありますが、ポターの著作権は戦時加算の対象外であるため、その影響は受けません。
3. 米国における状況
米国における著作権保護期間は、その法制度の変遷により複雑な適用がなされます。特に、著作物の公表時期によって適用される法律が異なる点が特徴です。
- 1923年より前に公表された著作物: これらの著作物は、既に著作権保護期間が満了しているため、パブリックドメインとなっています。『ピーターラビットのおはなし』の初版は1902年であり、米国ではこの原則に基づき早期にパブリックドメイン化していました。
- 1923年から1977年までに公表された著作物: これらの著作物は、原則として公表から95年間保護されます。これは、1998年に制定された著作権期間延長法(Copyright Term Extension Act, CTEA)、通称「ソニー・ボノ法」によって保護期間が20年延長されたためです。
- 1978年1月1日以降に公表された著作物: 著作者の死後70年、または団体名義著作物などの場合は公表から95年もしくは創作から120年のいずれか早い方となります。
『ピーターラビットのおはなし』は1902年公表のため、米国では上記「1923年より前に公表された著作物」の区分に該当し、長らくパブリックドメインとなっています。この米国の複雑な保護期間は、他の多くの著名な作品のパブリックドメイン化に影響を与えています。
国際条約と保護期間の調和
ベルヌ条約は最低保護期間を定めていますが、各国はこれよりも長い期間を定めることが可能です。例えば、多くの国が死後70年を採用しているのは、主に欧州連合の統一的な取り組みによるものです。また、TRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)も、著作権に関するベルヌ条約の最低保護期間を遵守するよう求めています。
しかし、これらの国際条約はあくまで最低基準を定めるものであり、各国の国内法がより長い保護期間を設定することを妨げるものではありません。これにより、同じ著作物であっても国ごとにパブリックドメインとなる時期が異なるという状況が生じます。
パブリックドメイン化後の利用と留意点
著作権(財産権)が消滅し、作品がパブリックドメインとなった場合、原則として誰もがその著作物を自由に利用(複製、改変、公衆送信など)することができます。これは、文化的な創造活動を促進し、知識や情報の共有を豊かにする上で極めて重要です。
しかし、パブリックドメイン化された作品を利用する際には、いくつかの留意点が存在します。
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商標権などの他の知的財産権: 作品の著作権が消滅しても、その作品に登場するキャラクター名やデザインが商標として登録されている場合があります。『ピーターラビット』の場合、原作の物語や挿絵自体はパブリックドメインでも、特定のキャラクターの名称やデザイン、関連する商品やサービスを示すロゴなどが商標登録されている可能性があり、これらを無断で使用すると商標権侵害となる可能性があります。利用の際には、著作権以外の知的財産権の有無も確認することが重要です。
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著作者人格権: 日本の著作権法では、著作者人格権は著作者の死後も保護されるとされています(著作権法第60条)。これは、著作者の意に反する形で作品が改変されたり、著作者の名誉を傷つけるような利用がされたりすることを防ぐためのものです。パブリックドメイン作品を利用する際にも、著作者への敬意を払い、作品の同一性や名誉を不当に害さないよう配慮が求められます。
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二次創作物の著作権: パブリックドメインの作品を基に新たな創作物(例:翻訳、翻案、現代的なアレンジを加えたイラスト、アニメーション)が制作された場合、その二次創作物自体には新たな著作権が発生します。したがって、パブリックドメイン化した原作作品は自由に利用できますが、その原作を基にした特定の二次創作物を利用する際には、その二次著作物の著作者の許諾が必要となる場合があります。
結論
ビアトリクス・ポターの『ピーターラビットのおはなし』を例に、著作権保護期間は著作者の没年を基準としつつも、各国の法制度、特に米国の複雑な公表年による区分や、国際条約、そしてその後の法改正によって大きく異なることが明らかになりました。
このような複雑な状況は、国際的な著作物の利用において、利用者が個々の利用国の著作権法規を詳細に確認する必要があることを示唆しています。また、パブリックドメインとなった著作物であっても、商標権などの他の知的財産権や著作者人格権の概念が存在するため、利用の際には多角的な視点から権利関係を検討することが不可欠です。専門家が著作権に関する情報を提供する際には、これらの複合的な要素を正確に理解し、最新の情報を参照することが求められます。